*お知らせ*コロナ感染防止の観点から旅の記事投稿があまり出来ないと思います。よろしくお願いいたします。

美濃金山城跡探索。岐阜県可児市、国の史跡。

城、城跡

遭難しかけた件

岐阜県可児市にある城跡までやって来ました。国道21号線から逸れること約20分、少しだけ山道を上って行きます。城跡のある頂上辺りまで車で上って行くことは可能でしたが今回は道のりにして頂上より300mほど手前でしたか第2駐車場に車を停めて歩いて行くことにしました。歩いて行く方が何か発見があるかもしれませんからね。いや、先に言っておきますと実は遭難するんじゃないかって一瞬思った出来事があったんです。(;”∀”)

車を降りて頂上まで向かおうと道路を少し歩いて行くと脇に鉄パイプで簡易的に作られた階段があるではありませんか。その階段自体は5~6mの長さでその先は山奥の方へと続いている感じでした。階段を上ってみると獣道がずっと奥まで続いていたので「あぁ、こういう場所によくあるショートカット出来る近道か。」ってな感じで躊躇なくこの道を選択しました。

結構な急斜面もありかなり息も切れる感じで歩いて行きました。地面には動物が掘ったのか足跡なのかよく分からない穴が沢山ありました。変な動物に遭遇しないだろうなって不安もなくはありませんでしたがその時はその時。すぐに頂上まで着くだろうからそのまま進みましょ。5分ほど歩くと錆びた看板がありましたよ。看板には信長が休憩するのに腰掛けた石があるみたいな説明が書いてあったと思いますが半分錆びて読みずらかったです。だいたいそれらしい場所も見当たりませんでした。あと急斜面を歩いて来たためにかなりきつかったです。すっかり写真を撮るのを忘れていました。

更に奥まで道は続いています。更に進んで行くと脇から合流してくる道もありました。そして更に行くとようやく開けた場所に到達。広さにして10m四方程度といったところでしょうか。ただ何にもないです。ここにも看板があって更に約30m奥に何か遺跡らしきものがあるようなことが書いてあったのですが申し訳ないことにこれを執筆している時には何て書いてあったのか忘れてしまいました。写真を撮らなかった僕の失態です。

そしてここからは少し下りになってたのですがその何かを求めて30mほど奥まで行ったのですがやっぱりそれらしいものはありません。そもそもこれ道合ってんのかって思い始めたころです。下り坂はまだ続いています。季節は1月、現在の時刻は午後4時前。5時までには車まで戻る感じでないとマズいっしょ。だいたいこの下り道は明らかに車とは逆の斜面。駐車場から続いていた道路も結果的には方向が違うような気がする。これ以上踏み込むのはやばいかもしれんな。こんな所で日没迎えたら完全にアウト!戻ることにします。ししょのたん英断。

...が⁉帰り道を進んで行くと先ほどの合流地点。…んー。どっちだったかなぁ(^▽^;)

多分こっち。少し焦りながらもずんずん進んで行くと来る時にあった鉄パイプの階段を発見!助かった。とりあえず舗装された道路まで戻って来れました。ただ城跡としては納得いかなかったのでこんどはこの舗装された道を上って行くことにします。くねくね道をしばらく進むと…。

今までのは何だったんだよ。水曜スペシャルか!(若い世代はお父さんに聞いてね)

普通にあるやん。ということでここからがレポートになります。

美濃金山城(別名、兼山城、烏峰城、烏ヶ峰城)

  • 城郭構造  
    • 梯郭式山城
  • 天守構造  
    • 複合式層塔型2重2階・非現存
  • 築城主   
    • 斎藤正義
  • 築城年   
    • 天文6年(1537年)
  • 主な城主  
    • 斉藤氏、森氏、石川氏
  • 廃城年   
    • 慶長5年(1600年)
破城の痕跡

まず現れたのは破城の痕跡です。石垣が積んであっただろう感じがわかりますね。

破城というのは城を故意に壊して再び城を築かれないようにするのです。廃城になったのが慶長5年(1600年)ですから当時の政治的な背景もあるのでしょうね。

石垣は自然の石を加工せずに積む野面積みという積み方です。角は強度を増すために長方形の石を交互に積む算木積みが残ってます。

古城山払下げ記念碑

これはもう少し時は流れて近代の出来事の記念碑のようです。古城山はこの山のことで江戸時代には尾張藩に管理・支配されていたため(これを留山と言います)村人たちは立ち入りが禁止されていました。

明治時代には皇室の御料林となり昭和20年には国有林となりました。この山の払下げは住民の念願だったようで昭和28年に記念碑がたてられたようです。

桝形虎口

桝形虎口とは方形に造られた虎口で城の出入口で敵が攻めてきた時は門を閉めて三方向から敵を向かい撃ちます。この虎口は右に折れていて右利きの敵兵に対して防御の薄い左側から攻める工夫がなされているようで細かいところまで考えていたんだなと感じました。

天守台西南隅石

破城の痕跡のところでも説明しましたが長方形の角石を交互に組み合わせて算木積みにしたものです。これで石垣がより堅固なものになります。

本丸跡

山頂付近まで来ると本丸跡が見られますが今となってはただ平地が広がるのみですね。流石に廃城時にきれいに解体されてしまったのでしょうか。発掘調査の時には排水溝や瓦なども確認されたようです。茶陶器なども出土したらしく御殿のほかにも茶室もあったのではないかと言われています。

高石垣、建物礎石、瓦の三つの要素がセットで城に用いられるのは信長や秀吉、その家臣たちが造った城の特徴でもあります。

豊臣秀吉の家臣の森忠政が城主であったことから天守もあったと想定されているようです。

出丸跡

今回は駆け足で城跡を見てきましたが石垣一つを見ても色々な技術や歴史を学べて面白いですね。帰り道で気が付いたのですがまた別のルートをたどると遊歩道があり季節によっては違った楽しみ方も出来るのではないでしょうか。

春には綺麗な花が咲くでしょう
向かいに見えるのは高根山

今回は来る時にちょっと大変な目に遭いましたが実は横道に入った獣道にもちょっとした発見があるような気がしました。寂れた看板だけを目にしましたがもう少し準備と時間的余裕を持って行けばもっと面白いものを見ることができたかもしれませんね。

今回はここまで。皆さんも獣道に入る時は気を付けてくださいね。

約200のアプリ・コンテンツが使い放題!

コメント

タイトルとURLをコピーしました